森との境界にあるもの、それに連なるもの「緑のモザイク」編

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「緑のモザイク」は、道端に生える草が舗道に敷き詰められた石のブロックを押しのけて伸びていくという彼らなりのささやかな反乱をテーマにしたものです。
2005年12月に発表されましたが「森との境界にあるもの」と同様に人工の構造物と自然界の植物の関わりといった、根底に存在する共通したスピリットを感じられる作品です。

この度、作家・内田敏樹より「緑のモザイク」を創作するためのモザイク標本をご提供いただきました。
モザイク標本は2014年3月開催のグラス2Hに出品する予定ですが、これを機会に「緑のモザイク」の素晴らしい世界を紹介していきたいと思います。
それではみなさま、うちだまの魅力を存分にお楽しみください。




この標本に収録されたパーツは40種類におよびます。
パーツをご紹介させていただく前に系統樹にて緑のモザイクの位置づけを確認していきましょう。

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ご覧いただいてお解かりのように、古代の花とは別系統から発生した六つ有るモザイクの中の一つです。
図で見ると系統的に完結し一つのジャンルを確立しているようですが、人工物と自然界との境目を強く意識した作品であることは一目瞭然で、森との境界に連なるものであることに間違いはなでしょう。



それではさっそく「緑のモザイク」のパーツ標本をご覧いただくことにしましょう。

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そうして、そのパーツから創りださせる、それぞれの作品をじっくり見てください。

全体を覆う白い部分は歩道などに敷かれた石畳のブロックでしょう。
その石畳に細く入ったヒビにも緑が侵入してきています。
そして中心からのびのびと四方にのびていく植物に注目していただきたい。
この緑がより力強く、魅力的に見えるのは石畳という妨害があってこそなのではないでしょうか。
そうして、そうしたなかに小粋さが感じられるのは、一見これらが幾何学模様に見えるからではないでしょうか。

見れば見るほど飽きないのは、その実、詳しく見ると幾何学模様というより、有機的な表現であるからでしょう。
そこに、生命の物語を感じ取ることができるのです。

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今度は「離れて見たときの印象」です。
離れて見ると、せっかくの細かい細工が見て取れなくなってしまいます。
そうして、離れなければ見えてこない文様が見えてきます、これがまた良いのです。

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さてこれらの作品ですが、皆さんにはこの作品群の大きさをどのようにご想像されているでしょうか?

すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、およそ女性の親指の第一関節ほどの大きさしかないのです。
もちろん、それより多少は大きいものも小さいものもあります。

それにしても、なんと深い世界をこの小さな物体の中に創り上げたものでしょう。

彼は「とんぼ玉創りは制約が多いから面白い」と考えているようです。
自分の前に横たわる制約や障害を前向きにとらえるという美学を心の底で(無意識に)もっているのではないでしょうか。
だからこそ、石畳みのすき間から「それでも」生えてくる植物を「美しい」と感じ、作品に昇華させたのではないかと思います。


ご存知の方も多いでしょうが、この緑のモザイクをはじめ、作家内田敏樹の作品の色遣いは決して華々しくはありません。
実は、この色にも内田作品の秘密がかくされているのです。
たびたび、さし色として登場する「黄色」「橙色」は、実は内田作品でしか見る事のできない、こだわりの色なのです。
他にもそのような特殊な色があります、しかし、あえてそれをひとつひとつ指し示す必要はないとも思っています。
なぜなら、彼にとって「色」も「技法」も「表現の為の手段」であって、大切なのは「表現されるもの」そのものであるからなのです。

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さて、ここで今一度、モザイクパーツについて考えてみましょう。

とんぼ玉をモザイクという方法でつくるとき、作り手はまず、そのモザイクのもとになるケーンを制作します。
これは断面が望みの模様になるよう組み上げ、溶かし、引きき伸ばしたガラス棒のことです。
この「緑のモザイク」の場合は前述の作業を複雑に組み合わせ繰り返すことで、一本のモザイクケーンが出来上がってくるのです。

ちなみにその出来上がったケーンを切って断面を出したものが、今回内田さんから提供された「緑のモザイク標本」なのです。

たいていの場合は、その創り上げたケーンから数点の作品を作ることができるのですが、そのケーンがなくなると、二度と同じケーンは出来ないと思ったほうがいいでしょう。

なぜなら、おおもとの材料となるガラスそのものの原料も発色の為の金属も自然から産出されるものであり、作家の手にするガラスそのものが常に同じものではない上、作家そのものの心の中にあるイメージもその時々で異なるからなのです。

このようなケーンを贅沢に多用し創られたものに、一つ一つ異なる表情がでてくるのは当然のことで、似たものはあっても同じものは二つと無いのです。

2015/11/20 13:23 Update
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